第六十二回 京都観世能 第一部

公演日時:2020/10/25(日・SUN) 10:00~
主催:京都観世会
演目:
(能)猩々乱 置壷 双之舞  片山九郎右衛門
               味方玄
(狂言)栗焼         茂山千三郎
(能)山姥 雪月花之舞    青木道喜
入場料:
【9月1日発売開始】
S席(1階正面指定席)   ¥12,000
A席(1階脇正面中正面指定)¥10,000
B席(一般2階自由席)   ¥6,000
学生(2階自由席のみ)   ¥3,500

本公演は新型コロナウイルス感染予防ガイドラインに沿った対策を講じた公演とさせて頂きます。

演目解説

猩々乱   置壷 双之舞 しょうじょうみだれ おきつぼ そうのまい
 昔の中国のお話。潯陽江の畔の揚子(ようず)という里に、高風(こうふう)という親孝行の男がいた。彼はある夜、不思議な夢を見る。揚子の市で酒を売れば富を得られるというのである。彼が夢の告の通りにすると、次第に富貴の身となった。
 ここにまた不思議なことが起こる。市毎に来ては酒を飲む者があり、どれだけ飲んでも顔色一つ変わらない。高風は不審に思い名を尋ねると、「海中に住む猩々」と名宣って帰って行った。秋の月の美しい今宵、高風は酒壺に酒を湛えて猩々を待ち受ける。果して猩々は潯陽江より浮かび上り、高風の酒を飲む。秋風を寒くも思わず、月や星の美しさを愛で、芦の葉の笛を吹き、波の鼓の音楽に合わせて舞を舞う。そして高風の孝の心を賛え、汲めども尽きせぬ泉の酒壺を彼に与えて帰ってゆく。秋・月・風・酒・友と揃えば、詩的世界が展開するのは必然である。この曲でも、白楽天の詩にこと寄せて、見事に酒友の友愛の深さと楽しさを生み出している。『松虫』の前場の手法に同じである。ただ『猩々』においては、祝言性が満ち溢れているのが大きな特徴であろう。
「乱」と小書(特殊演出)の「置壷」は、常は出されない酒壺の作り物が正先に据えられ、酒友の心を具象化する。そして常は「中之舞」を舞うところを、「乱」と称する特殊な舞を舞う。囃子は緩急自在に秘術を尽し、シテは摺り足を用いず、水を蹴り、波間を流れ、浮きつ沈みつ舞い戯れる。今回は「双之舞」によって二人の猩々が現れ、楽しさも倍増する。能にこれ程の舞踏的要素と器楽的要素を取り込んだ演出は珍しい。
 祝言と音楽と舞を以って、万民の安寧を願う祈りの曲である。

山姥  雪月花之舞 やまんば せつげっかのまい
 「山姥の曲舞(くせまい)」を謡うことによって、都で名声を得た遊女・百万(ひゃくま)山姥は、信濃の善光寺参りを志し、供の者と北陸道(ほくろくどう)を進む。越後越中の境にある境川に着いた一行は、ここから善光寺への山越の案内を所の人に頼む。もとより修行の旅と覚悟している百万山姥は、阿弥陀仏来迎の直路(ちょくろ)という最も険しい上路越(あげろごえ)を選び足を踏み入れると、突如日が暮れ前後を忘じてしまう。暗闇より女の声がする。今宵のお宿を参らせましょうというのである。一行が女の宿に着くと、女はいきなり百万山姥に「山姥の曲舞」を所望する。曲舞を聞くために日を暮らし、我が家に泊めたのだと言う女は、真の山姥であったのだ。曲舞で名を上げながら、真の山姥には心も懸けぬ恨みを述べに来たのだと言う。百万山姥はあまりの恐ろしさに、曲舞を謡おうとすると山姥はそれを制し、月を待って謡えば真の姿を現そうと言い捨てて消え失せる。                  <中入>
 所の人より山姥の謂れを様々聞いた後、夜更けていよいよ曲舞を謡い始めると、先刻の言葉通り山姥が真の姿を現し、曲舞に合わせて山姥の何者なるかを移り舞に舞い示す。そして輪廻を離れぬ山姥の、山廻りの苦しみを表して消えてゆくのである。
 山姥とは何者であるかを問い続けるのが、この曲の一つの魅力であろう。山に棲む鬼女か、人間に執着する人か、聖俗を超えた山か、あるいは宇宙の摂理か。人に迷い、輪廻の妄執に苦しみ続けながら、「柳は緑、花は紅」(あるがままがすべて真実)と言い放つあたりに、そのヒントがあるかもしれない。
 「雪月花之舞」の小書では、曲舞の前に舞が入り、段毎に雪月花の心を舞い継ぐ。具象に徹する様式で構成される曲中に、舞という象徴性を組み入れるところに、自然と一体化するスケールの大きさが生まれるようにも思われる。

出演者紹介
CAST

片山九郎右衛門
Katayama Kurouemon
日本能楽会会員

味方玄
Mikata Shizuka
日本能楽会会員

茂山千三郎
Shigeyama Senzaburo
日本能楽会会員

青木道喜
Aoki Michiyoshi
日本能楽会会員